その42「陶芸作家は、職人か、それとも芸術家か」

こんにちは。花祭窯おかみ・ふじゆりです。

芸術の秋、満喫していますか?「窯元おかみ」という仕事柄、「芸術」「デザイン」「伝統工芸」などの言葉と、常に接しています。陶芸作品は、芸術品か、デザイン製品か、工芸品か。はたまた陶芸作家は、職人か、それとも芸術家か。

別になんと呼ばれても構わない(あるいは、どれも正解と言える)というのが、本人たちの想い。ですが「第三者に、本質をわかりやすく伝える」ためには、自分なりに定義づけしておくことも大切です。その最適な定義づけを目指して、ああでもないこうでもないと、言葉をこねくり回すのも、おかみの仕事のひとつ。ところがつい先日、あっけなく答えが書いてあるページに遭遇しました。

手と頭で仕事をするのは職人です。手と頭と心で仕事をする人は芸術家です。
(アッシジの聖フランチェスコ)

歴史的に高級大理石の産地であるイタリア・カッラーラ地方にある、美術アカデミーのサイトに書いてありました。なるほど、想像力・創造力が生まれるのは「心」から。仕事に作り手の「心」「想い」の入り込む余地がどれほどあるかの違いが両者の違い、という解釈は一理です。それにしても簡潔。説明しすぎることの弊害を拒んでいるかのようなシンプルさに、目からうろこが落ちました。

ところで「アッシジの聖フランチェスコ」とは何者でしょうか。ウィキペディアによると、12-13世紀にはじまったキリスト教フランシスコ会の創設者として知られ、清貧と平和の思想を持ったカトリック修道士とのこと。数々の逸話が残り、歌劇にもなっていました。教会と芸術は切り離せず、聖職者がパトロンとして果たした役割も大きかったイタリア。清貧を旨としつつ、芸術家の本質をシンプルに言い表した聖フランチェスコさんとはどんな方だったのか、興味が湧いて参りました。

秋は実りの季節。芸術は人間の手と頭と心の仕事から生まれた実り。存分に味わい楽しむ秋となりますよう。

<日常の禅語>禅の十牛図
禅の十牛図とは、悟りへと至る禅修行の 10の歩みを、10の図と漢詩文で表現したもの。わたしが茶道入門している博多の円覚寺には、銅板に彫られた「十牛図」があります。今年春のお茶会の際に、その概略を伺う機会をいただいたのでしたが、「十牛図なるものがある」とわかっただけで、内容はよく理解できずにおりました。その数か月後、現代アートの展示で知られるワタリウム美術館(東京青山)で、図らずも再び「十牛図」に遭遇。

1.「尋牛」牛を尋ねる 2.「見跡」牛の痕跡を見つける 3.「見牛」牛そのものを見る 4.「得牛」牛を実際に手に入れる 5.「牧牛」牛を飼いならす 6.「騎牛帰家」牛を使いこなし、平安のうちに家に帰る 7.「忘牛存人」家に戻ってくると、牛を手に入れたことも、牛そのものも忘れてしまう 8.「人牛倶忘」牛だけでなく、これまで人として生きてきたこともまた忘れ去られ、すべてが空へと乗り越えられていく 9.「返本還源」あらためて、すべての事物がありのままの根源へと戻る 10.「入廓垂手」人々が生活している市場(廓)に入り、手を下げてそのままいる(※ワタリウム美術館「鈴木大拙展」より)

半年のうちに2度も「十牛図」が目の前に。自分にとってどんな意味があるのかしらと、展示をじっと読み考えたものの、正直なところ今回もよくわかりませんでした。探し求める牛とは「真の自分」「自己の心」だといわれています。「牛」を「真の自分」と置き換えて読んでみたら、どうでしょう。なにか見えてくるものがあるでしょうか。実は十牛図解釈の書籍は多数出ています。しばらくはそれらに手を伸ばさず、悶々とすることもまた、楽しんでみようと思います。


花祭窯おかみ・ふじゆり(藤吉有里)

「古伊万里」の名で知られる肥前磁器の伝統工芸文化、技術を基にした窯元「花祭窯」のお内儀。おかみとして窯を支えつつ、自らもアートエデュケーターとしてMeet Me at Artを主宰する。

花祭窯(はなまつりがま)
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